~まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。~ から始まる、
司馬遼太郎著の『坂の上の雲』を8か月かけてで読みました。
文庫本で8巻に及ぶ大作ですが、小説の形をとった明治期の案内書のように読みました。
伊予松山に生まれた秋山好古、秋山真之、正岡子規の3人の登場人物を軸に動きます。
「秋山好古」は、とにかく豪快。騎兵隊育ての親。世界最強のコサック騎兵団を破る。
「秋山真之」は、連合艦隊先任参謀として日本海海戦の作戦を立て勝利に導く 。
「正岡子規」は、明治を代表する俳人、文学者だが、34歳で夭折。
学校の歴史で習った日露戦争は、
歌にある “♪日ロの戦争大勝利♪” (明治大恋歌)でした。
が、「二百三高地の戦い」や「バルチック艦隊との日本海海戦」だけではないことを知りました。
そもそも、日露戦争は大勝利ではなく、“勝たせてもらった”(半藤一利氏)、
“勝ちを作った戦争” だったことが、感慨深く意義を感じました。
いかに戦争を終わらせるか
「このまま時間を与えれば、ロシアの戦力が極東で完成し、日本は手遅れになる」
やむなく先制攻撃から、開戦となります。
現に、明治天皇や伊藤博文は「開戦阻止」に力を尽くしました。
日清戦争の高揚感が残る国民と勝利を疑わないロシア以外は、
政府も軍部の多くもこの戦争に勝てるとは思っていなかった。
そこから、“いかに戦い、いかに終わらせるか” が始まりました。
司馬氏が描きたかったのは、単に戦争の勝敗や戦争功労者への称揚ではなく、
「戦争回避」よりは、坂は険しいが駆け上がる以外に道はなかった、
あの時代の明治人の苦悩と尽力、躍動ではなかったか、と思いました。
日露戦争の勝ちを作った多くの立役者達に惹かれます。
Wikipedia等の資料で追っていくと、なんとも魅了される物語がありました。
勿論、描かれることのなかった一兵卒に至るまでこの戦争の立役者であることは然りです。
外交・情報・経済・軍事
軍 事
・児玉源太郎(上段左)満州軍総参謀長
この戦争の作戦指揮を執るのは自分以外にいない、と内務大臣を辞して満州に向かいます。
「五分五分がやっと。どうにか六分四分まで漕ぎつけたい。つまり6ぺん勝って4へん負ける。」
そうして調停に持ち込む、と作戦を立て旅順、遼陽、黒溝台 、奉天とロシア軍を退けます。
・東郷平八郎(上段中央)連合艦隊司令長官
「バルチック艦隊をかならずこれを撃滅いたします。」と明治帝に誓い完勝しました。
戦いの最中波しぶきのかかる艦橋に石像の如く、静かに重々しく立ち尽くした。
東郷の立っていたところだけは乾いていた。
経 済(金融)
・高橋是清(上段右)日銀副総裁
「高橋が公債発行に失敗すれば、国が滅びる」『国家の命運は金融にあり』
戦争のさなかにあり、それも勝てる見込みもないと思われている
弱小国の公債を誰が買ってくれるのか。
それでも戦費調達のためロンドンに行き、公債発行を成功させます。
情 報
・明石元二郎(下段左)参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀
「その働きは、わずか1人で20万人にも匹敵する」。
ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語を操り、児玉源太郎の命を受け
ヨーロッパでロシアの後方攪乱と、諜報活動任務を見事に全うします。
外 交
・小村寿太郎(下段中央)外相・外交官
「うその外交は骨が折れるし、いつかはばれるが、
つねに誠をもって押し通せばたいした知恵もつかわずにすむ。」
日英同盟を実現し、ポーツマス会議では全権を委任される。
帰国時、賠償金の取れなかった小村の両脇を
首相の桂太郎と海軍大臣山本権兵衛が支えたエピソードは胸を打ちます。
・金子賢太郎(下段右)内閣総理大臣秘書官
伊藤博文から、戦争講和を整えるようアメリカに働きかける命を受ける。
ハーバート大学の先輩セオドア・ルーズベルト大統領は
金子との会見を拒んだことなく、ポーツマス講和の成立に貢献しました。
「坂の上の雲」の時代
“勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし”
この言葉がよぎります。
バルチック艦隊のロシアが負けた理由は、納得です。
陸戦は継戦中でロシアは負けを認めてはいません。
日本はこれ以上の継戦は不可能だったでしょう。
それでも、戦勝国は日本です。
伊藤博文、大山巌、乃木希典、山本権兵衛、広瀬武夫、大迫尚敏、
福島安正、長沼挺身隊、宮古島の漁民・・・等々々、驚愕の人物ばかりです。
日本は兵力も、財力もロシアの半分以下どころか遠く及びません。武器も弾薬も足りない。
それでも彼らは、勝ちを作りました。
秋山好古も真之も最初から軍人を目指したわけではありません。
好古は小学校の教師、真之は正岡子規と共に東大予備門に入りました。
好古は真之の教育費のために教師を辞め陸軍士官学校へ、
そんな兄をみて真之は海軍兵学校に移りました。
日露戦争の参加者たちに傾倒し心酔していると、
司馬氏は、彼らがいなくても他のものがその席を埋めたであろうと、にべもないのです。
“時代がそういう人間と組織を生んだ” そういう時代だったと。
残念なのは、日露戦争を正しく検証し国民に知らしめなかったことで、
やがて昭和のあの戦争を引き起こした。
「とても同じ民族が起こした戦争とは思えない。」
司馬氏は繰り返し、そう述べています。
~彼らは明治という時代の体質で、前のみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、
それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。~
追伸:
『坂の上の雲』は昭和43年から47年まで産経新聞夕刊に連載されました。
司馬氏は40代のほぼ全部を『坂の上の雲』の執筆に充てたとあります。
前半5年は当時を知る多くの関係者に会い、資料を調べ、準備に費やしました。
この名著を残して下さったことに、ただただ感謝です。