松山に行きたい!
司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』、3人の主人公生誕の地・四国松山への初めての旅です。
尾道から、しまなみ海道の島々をつなぐ7つの橋を渡り、松山まではほぼ1日の行程。
坂の上の雲ミュージアム
最初は此処、『坂の上の雲ミュージアム』
安藤忠雄氏の設計で、なだらかな坂道をイメージした柱のない空中階段の美術館です。
まず、驚くのは新聞に連載された1296回分の『坂の上の雲』が壁一面に、
それこそ坂を上るほどの数です。司馬氏の執筆に費やした時間の長さを感じます。
NHKのドラマで主人公秋山真之を演じた本木雅弘さんが寄せられたパネルに驚愕、達筆です。
真之が日露戦争後、海軍大学校教諭の時の講義「戦争不滅論」からの抜粋ですが、
どのあたりが本木さんの琴線に触れたのか知りたいところでしたが、
あまりの達筆に読めませんでした。
世界地図の中で「松山」の地名がある日本地図は、ロシアの地図だけとの説明でした。
日露戦争の捕虜収容所で、松山は捕虜と地元民の交流があり
「捕虜になって松山に行きたい」は、戦場でも交わされたほどで、
ロシア兵の間では松山の厚遇は知られていました。
ミュージアムの隣は重要文化財の洋館「萬翠荘」、漱石ゆかりの珈琲店「愛松亭」へ続きます。
愛松亭の猫の名はマドちゃん。
『坊ちゃん』のあのマドンナ、漱石先生の写真の前でお出迎えです。
秋山兄弟生誕の地と好古の墓所
次に訪れたのは秋山兄弟の生家です。
松山城への途中の坂道から少し入った所に、『秋山兄弟生誕地』があります。
生家は空襲で焼け復元したものですが、部屋は忠実に再現されたものだそうです。
庭に立つ好古像と真之像は、互いの視線が合う位置関係にあります。
ちょうど小学生の遠足で、大勢の子供たちが来ていました。有志の会の方が、
「好古兄さんは、生まれてすぐの弟(真之)を寺にやろうという親に、
大きくなったら豆腐くらいの厚さの金を稼ぐから寺へはやらんでくれ。」
のエピソードを話していました。
秋山好古の墓所は、道後温泉地区に
ひっそりとありました。
分骨され有志によって建てられたもので、傍らの永仰遺光(永遠に尊敬し、
その人徳の光を未来に伝える)の碑が
何より好古を物語っています。
酒好きの好古のために、
ビールや『国士無双』の酒が供えられていました。
好古は退役後、故郷松山の市立中学校の校長を6年間勤めました。
~好古の校長就任後、徐々に生徒の身だしなみも整い、目に見えて遅刻や欠席が減り、授業料もきちんと納められるようになった。しかし、好古が生徒を叱ることは一度もなく、怒った顔を見せたこともなかった。ただ登校時30分間、校門前に立ち、あいさつをし、ニコニコと笑顔で校内や教室を見回り、時に落ちているゴミを拾い、生徒たちと経験や教訓を交えた世間話に興じた。~
~住まいは昔の生家で、家事は親類の者が手伝いに来るだけの質素簡潔な生活を続ける。「(日露戦争の)未曽有の大勝利は国難に殉じた戦死者のたまものである。戦死者の遺族に対しお気の毒と存じ、日露戦争後はつとめて独身生活をしている」。教育者となった晩年も、英霊とともに生きていた。~
(出典:朝日新聞「忘れ難き偉人伝」2013年)
有志の会の方は「草は生えていませんでしたか」
地元の人の好古への愛は止まないようです。
松山城から子規堂へ
ドラマのオープニングで好古、真之、子規の3人が駆け登って行ったのは
松山城のどのあたりかな、と探しつつ天守を目指しました。
途中の松の木越しの白い雲が青い空と相まって、3人の姿が偲ばれました。
子規堂は、市内の南側お城やミュージアムからは少し離れたところにあります。
資料を見るなら『子規記念博物館』の方がよいのかもしれませんが、
子規の体温が感じられそうな子規堂にしました。
見学料50円!を払い、子規が17歳まで暮らした部屋や文机のある建屋と、
現存する最古の1両だけのまるで馬車のような『坊ちゃん列車』は明治そのもののよう。
下灘駅から大洲
今回は、個人では行きづらい「しまなみ海道」や「下灘駅」「大洲」をバスで巡り、
一日半は自由に歩ける行程でしたので、松山で訪ねたい所はほぼ歩くことができました。
熱望していた下灘駅は、雨の中に “本当にこれだけ” という潔い風情で佇んでいました。